2003.02.01 執筆コラム 「食育」の浸透におののく親たち

公益社団法人 日本マーケティング協会発行 『MARKETING HORIZON』2003年2号掲載

「食育」がさまざまな場で語られるようになってきている。食育とは文字通り食を通じた教育のこと。その中身は広範囲で、使われる場面に応じ若干解釈の違いはあるが、要するに「より良く生きるための食の知識と技術の教育」といえるだろう。

食育の典型的な事例は、「総合学習」のプログラムである。 畑で農家の方々の話を聞いたり、その場で野菜を収穫、あるいは自分たちで栽培したりというものや、食材カード類を使って栄養バランスをゲーム感覚で身に付ける、という体験学習的なものである。

もっとも、そうした現場に出向いた管理栄養士の方の話では、今の子供たちは情報番組からのピンポイント的な食材・栄養素知識は異常なほど豊富だが、いざ野菜と包丁を手渡されてもひとつひとつの指示を与えないと何も使えない・動けない、というものであった。そして何よりも、せっかくそれらの技術や知識を習得しても再現機会が極めて少ない、とも嘆いている。

中食市場の成長と加工食品売場の目も眩むような商品群がその理由を物語っている。食育もスローフードも食のプロセス体験重視を唱えるものであるが、そのプロセスこそが今は高い商品価値だ。

だからこそ「おののく親たち」が出現している。 食育もスローフードもお説ごもっとも、心惹かれ、憧れる部分はある。しかし、それらは「でもね…」に続く「やれるものならとっくにやっているわよ」というストレスをも同時に感じさせている。 塾通いの子供や弧・個食機会の増加、専業・非専業ともに調理時間は短縮傾向が続き、それを支援する商品は増える一方という家庭内の現実。しかも、家庭外では外食・中食・加工食品、いずれも安心・安全はもちろんのこと、食育やスローフード的訴求で日々新たに登場する。

だからこそ、定性調査の現場ではこんな発言が聞かれるのだ。「『ママ、今日の夕食、緑の野菜が少ないよ』なんて言われたらムッとしちゃう」「『このお魚はどこの海から来たの?』『この野菜は有機?』っていちいち聞かれたらどうしよう」「『大根の面取りがしてないよ』とか指摘されたら、『じゃ、明日から自分で作ってよ』って言ってやる」などなど。

ある程度、意識の高い人ほど「ちゃんとできない・できていない」感がストレスになっている。 しかし、だからこそ、決して戻ることのできない「簡単・便利・手間要らず」との現実的折り合いの付け方に新たなチャンスが潜んでいる。正論だけの食育やスローフードでは時間的・経済的にゆとりのある人だけのものになる(つまり現状と同じ)。

例えば、「SKIP」の魅力を頭では理解していても、時間と家計の事情から手が出せないような層への「折り合い訴求」はまだまだ未開拓だ。「でもね…」に対する魅力的な回答商品へのヒントがそこには多くあるはずだ。

ただし、おののき層は意識も高いので売る側都合による折り合い商品では満足しない。本気で作る側都合・食べる側都合を考えたものでないと見破られてしまう。既に半ば仕方なくそれらを利用しているが故に、どうせ買うなら可能な範囲で少しでもいいものを、という選択眼で表示や内容チェックはそれなりに厳しく、経験を積んでいる。

とはいえ、おののく親は救いがある。おののきすら感じない親、例えばお弁当用の冷凍食品を自分が一度も口にしないまま使い続けている人たち。

どうか、そうした食に対する不感症の親が(これ以上)増えませんように、との思いで商品企画に携わっているが、その層への対策こそが、実は一番必要で一番難しい食育だと思っている。