公益社団法人 日本マーケティング協会発行 『MARKETING HORIZON』2017年1号掲載
見えない・聞こえない行間の醍醐味
確かにそこにあるはずなのに、その姿は見える人にしか見えない。それが行間。わたしの好物である。その好物が数多く発掘される場がインタビュー調査である。
長いことインタビュー調査に携わっている。6名程度のグループインタビューであったり、一対一のデプスインタビューであったり、またはその中間であったりと、目的と条件によりさまざまではあるが、情報技術の発達浸透とともに増加していると感じる。調査市場自体が量的・質的ともに拡大しているのは確からしい(一般社団法人日本マーケティング・リサーチ協会 第35回経営実務実態調査)。
量的・質的いずれの場合も、調査の醍醐味は宝探しにも似て、予め検証すべく描いていた仮説をいい意味で裏切られた時の爽快感たるや、何物にも代え難い魅力だ。いくつかのグラフやデータシートなどのファクツの重なりから浮かび上がってくる、声なき声が聞こえたときにも目の疲れや肩こりを忘れるほどの楽しさがあるが、生身の人と対面したときに得られるそれはまた格別である。
何が出てくるのか、何を採りに行くのか、予め想定しながら設計するものの、「お、そうきたか」と思える気付きを直接的には「見えない・聞こえない」ところに見つける醍醐味がたまらない。
ノンバーバル(非言語)な情報の中に一瞬現れる表情。早口になったり、饒舌になったりするときの目付きや輝きで、真の熱意か無意識のごまかしなのか、語っている内容の向こう側にその人の暮らしや仕事、家庭が透けて見える。
それこそが、その人をその人たらしめているマグマそのものなのだ。対面のインタビュー調査でそうしたマグマの手応えを感じた時のぞくぞく感は白鯨と格闘するエイハブ船長か、カジキマグロに釣竿をしならせる松方弘樹か、といったら大袈裟だろうか。が、ちょっとでも油断すると目の前から流れ去ってしまう、言葉と言葉の間に一瞬するりと現れるものたちを得たときの達成感はやはりそのくらい大きいものだ。対象者の世代・年代を問わず、また景気や情報技術等の社会環境が変わっても、この手応えの大きさは変化しない。
行間と行間のギャップにある行間
手応えのぞくぞく感は変わらないが、対象者における行間の現れ方には変化が見られる。「SNS映え」という言葉こそ最近生まれたものの、フレームの中に収まったときにキレイに見える暮らしをしたい欲求は、既に10年以上前にも見られた。もっともそれは、あくまでもリアルな世界におけるリアルな意識であり、行動にとどまっていた。しかし、最近はSNSでのキャラにおける行間と、真のキャラ(いわゆる中の人)における行間、そしてその両者におけるギャップに潜む行間、といったそれぞれの行間が現れたりもする。どれも事実。どれもその人なりに本気。しかし、ちょっとした違和感や矛盾は隠せない。
このような時の行間の扉を開けるひとつの鍵が「時間」である。どんな人にも一日24時間という長さは変えることができない。時間を切り口に紐解いていくと、思わぬところに思わぬ行間、まさにその人の行動を支えているインサイトを見つけることができた時もある。こうした例はこれからさらに増えていくだろう。
行間をカタチにしていく楽しさ
また、調査ではないが、コンセプト開発のワークショップのファシリテーションでも複数の行間との格闘になる。参加しているメンバー自身が行間に気付き、発掘できる機会を促すような仕掛けを組み立てつつ、ワークショップ全体を通じた成果としての行間を掘り当て、見える形にすることが求められる。
いずれの場合も、そこに行間という大好物のお宝を探そうとするといまだに魂を吸い取られそうになる。「プロは80%のチカラで120%に見せるもの」と宝塚のトップスターがかつて告白していたが、その域を維持することはなかなかに難しい。が、対象者とは常に一期一会。ハーフミラーやカメラを通して見つめているクライアントにとっても、新たな戦略の手応えを得る重要な機会。難しいからこそ、宝探しなのだ。
行間というお宝を得るためには入念な準備が欠かせない。妄想力総動員で何度もシミュレーションを行う。行間の発見は極めて偶然に近いものだが、偶然に気付きやすい状態にしておくことは必然だ。おそらく、あらゆる行間読みの達人はこうした妄想オタクであるに違いない。東大受験ロボの「東ロボくん」は読解力に限界を感じ、東大合格を断念したとのことだが、妄想AIが登場したら行間宝探しもよりいっそう深く楽しくなるのでは、とあっという間に訪れるそんな未来にもわくわくしている。
ところで、行間から得たものを報告するレポートにおいては、当然ながら行間は御法度である(行間で読ませる報告書や、心の優しいヒトにだけ読めるレポート、というものにも挑戦したいものではあるが、請求書発行は諦めなければならないだろう)。
行間から得たお宝を商品やサービスに活かし、暮らしの行間をゆかたにしていくことに貢献したい、と行間なしに素直に妄想する新たな年のはじまりである。